『風の中の風見鶏のごとし』¹

 西洋の建物の屋根や教会の尖塔の上にはよく「風見鶏」が立っている。風の方向を知ることが、どうしてそんなに必要であったのか、と思うほど多い。しかし、なぜ「鶏」なのであろうか。

 もともと風見は旗、それも家柄を示す紋章入りの旗を立てて行なった。そのため鶏の代わりに家紋をつけた風見もある。9世紀半ば頃、教皇は教会の尖塔の上に風見をつけるように命令を出したが、それには雄鶏をかたどった風見が用いられた。その理由は、キリストの12人の弟子の一人で、キリスト教会の礎となったペトロは、イエスが捕らえられたとき、イエスの予言通りその弟子であることを三度否認した。その時鶏が鳴き、その鳴き声でペトロは自己覚醒に至ったからある。(ルカによる福音書第22章54―62節)

 ここから、教会の風見鶏は人々を信仰に覚醒させる象徴となった。また鶏は暁を告げ、朝の光を呼び起こすということから、悪魔を退散させる力を持っていると信じられていたからでもある。

 しかし、標記のことわざは、このような信仰とは関わりがない。風見鶏は風の向きによってくるくる動くので、気まぐれ、軽はずみ、向こう見ずの象徴でもある。良い意味では、融通の利くことを表すが、このことわざでは、気まぐれな態度を示していると言える。

1. To be like a weathercock in the wind.

(志子田光雄)