『コップと唇の間で多くの事が起こる』¹

 百年ほど前にことわざの辞典を編纂したブルーワーによれば、このことわざの出典はギリシャ神話であるという。

 アンカイオスは、英雄イアソンに従って大船アルゴーに乗り、金の羊毛を求めて大冒険航海をした一行の一人で、アルゴー船を操ったことで有名である。あるときアンカイオスはブドウを植えたが、彼はそのブドウで作った酒を飲む前に死ぬであろう、と召使の一人に言われた。やがて収穫されたブドウから酒が搾られ、彼はその召使の前で飲んで見せようとしたが、召使は「盃と唇の間は遠い」と言った。その時、イノシシがブドウ園を荒らしているという知らせが入り、アンカイオスは盃を置いて駆けつけたが、イノシシに突き殺されてあえない最期を遂げたのである。

 また、昔ローマ人は寝台に横たわりながら食事をする習慣があったが、その姿勢で酒を飲むのは難しく、コップの中身をこぼさぬようにするには特別な注意が必要であったことに由来するという説もある。

 いずれにしても、「物事を成し遂げるまでには最後まで気を抜いてはいけない」とか、「手に入るまでは確実ではない」という意味である。

中国のことわざでは『九仞の功を一箕に虧(か)く』²(一仞は約1.8メートル。折角高く盛り上げた山も、最後のもっこ一杯分の土をサボって盛らなれば、その山は完成しない)、本邦のことわざでは『磯際で船を破る』とか『千慮の一失』、あるいはもっと簡単な表現では『油断大敵』がこれに相当するであろう。

1.  Many things happen (or fall or fall out or find place) between the cup and the lip.
  Multa cadunt inter calicem supremaque labra. (L. 盃と唇の先端の間で多くのものが落  ちる)
2.   為山九仞、功虧一箕(書経)

(志子田光雄)