『狐の説教を聴きに来る鵞鳥は愚かな鵞鳥だ』1 狐と鵞鳥はよくペアで登場する。狐は「ずるさ」の、鵞鳥は「おろかさ」の象徴である。 旧約聖書エゼキエル書13章4節には、偽預言者を指して「荒れ跡にいるきつね」と評しており(新共同約聖書では「山犬」となっているが、1611年の欽定訳英聖書以来「きつね」と訳されてきてきた)、狐は偽善的で嘘の多い説教者の代名詞となっている。 それに対して、鵞鳥は一般に「豊穣」やそれと関わる性との関係で「愛」、そして時には「雄弁」の象徴ともなりうるのに、狐と並べて用いられる時には、しばしば「愚かさ」(silly、その本当の意味は「無垢」ではあるが)の象徴として用いられる。 標記のことわざは、聖職者の衣を着た悪賢い者が有難い言葉を吐く時、その腹黒い計画を見抜けずに聞き耳を立てて感心する者は愚か者である、という意味である。 このことわざの変形と思われるものに『狐が説教する時には鵞鳥に気をつけろ』2ということわざがある。狐が人をだます腹黒い悪者を表している点で変わりはないが、ここでは気をつけなければならないのは鵞鳥を飼っている人間であり、鵞鳥は人間の財産でしかない。飼育されていた鵞鳥がしばしば狐に盗まれたからである。 |