『不幸な者にとり、苦しむ仲間を持つことは慰めなり』¹

 人はどうして芸術作品としての悲劇を観たり、読んだりするのであろうか。これらの悲劇においては、主人公は苦悩の結末、その最たるものは死を迎えるのであるが、それを知りつつ、観たり、読んだりして「楽しむ」のはなぜであろうか。

 人は、他人の苦しみを観ることにより、快感を抱くようなサデイズムが深層心理にあるのだと、解釈することもできるであろう。

しかし、一般には、ギリシャの哲学者アリストテレスの有名な言葉で説明される。彼は、悲劇を観ることにより、「哀れみと怖れによって、魂の浄化(カタルシス)を行うのだ」と述べている。これは古来様々に解釈されてきたが、少なくとも、苦しんでいる主人公のような境遇に自分も陥る可能性がある思う場合には怖れを抱き、苦しんでいる主人公より自分が少しでもましであると感じる場合には哀れみを抱くことができる。

そして、芸術は一般に現実の誇張、増幅であるため、主人公が、それも古典においては大抵自分より身分の高い者が、大いに苦しむのを観る時、観客は、自分自身も多かれ少なかれ人生の苦しみを抱いていても、それは主人公の苦悩に比べて小さく見えてきて慰められるのだ。

シェイクスピアの『リア王』において、弟の奸計により父から勘当されたエドガーが、娘に追放されて嵐の中を彷徨う老王リアの狂気の姿を見て、「苦悩に仲間があり、耐えあう友がいるとき自分の苦しみはなんと軽く耐えられるものに思えることか」言っている。まさに標記のことわざの通りなのである。

このように、人は、意識的、無意識的に、このような自らの魂の慰め、苦悩の軽減を求めて悲劇を観に行くのだ、とも言えるであろう。

1. Solamen miseris socios habuisse doloris.
                 (Christopher Marlowe, Fausutus, II, 1)

Var. Solamen miseris socios habuisse malorum.
  (不幸なる者にとり、不幸の仲間を持つことは慰めなり)
類 Company in misery makes it light.
  (惨めな時の仲間は惨めさを軽減する)
   It is good to have company in misery.
  (惨めな時に仲間を得ることはよいことである)

2.     When grief hath mates, and bearing fellowship,
   How light and portable my pain seems now.
                                  (King Lear, 3.6.107-8)

(志子田光雄)